騎士団のサモギティア占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:13 UTC 版)
「ジェマイティヤ蜂起」の記事における「騎士団のサモギティア占領」の解説
サリナス条約によれば、ジェマイティヤはドイツ騎士団が獲得し、その履行にヴィータウタスも協力することとなっていた。しかしジェマイティヤ人はドイツ騎士団による支配を拒絶したため、結局ドイツ騎士団はジェマイティヤを軍事力で征服する必要があった。騎士団は500人の人質をプロイセンに連れ去って抵抗を弱め、騎士団に忠誠を誓ったジェマイティヤの貴族には羊毛、塩、衣服などの報酬を与えた。また騎士団はジェマイティヤの周縁に2つの要塞を建設した。うち1つはヴィータウタスの援助の元でネヴェジス川近くに建てられ、もう1つはドゥビサ川付近に建てられフリーデブルクと名付けられた。またヴィータウタスは、リトアニア内戦中に自身が焼いた2つの騎士団要塞についての補償として、騎士団のために城を建設することにも同意した。一方、騎士団はジェマイティヤへの破壊的な略奪を続けていた。1399年2月、ドイツ・リヴォニア騎士団は中央ジェマイティヤを襲撃し、地元の貴族は満足な抵抗ができなかった。1399年から1400年にかけての冬、ヴィータウタスはドイツ騎士団の遠征を援助した。ジェマイティヤ人はヴィータウタスに助けを求めたり彼への降伏を申し出たりしたが、ヴィータウタスはこれを断りドイツ騎士団との条約履行を優先した。孤立無援となったジェマイティヤ人は、ついにドイツ騎士団に降伏した。1400年夏、騎士団総長コンラート・フォン・ユンキンゲンはハインリヒ・フォン・シュヴェルボルンをカウナス城からフリーデブルクに派遣し、ジェマイティヤの長官に任じた。 ドイツ騎士団は、ヴィータウタスとの良い関係を維持しようとしていた。モンタウのドロテアの墓に巡礼したヴィータウタスの妻オナを丁重に迎え、ヴィータウタスには贈り物をした。しかし、騎士団がリトアニアに逃亡した農民4000人の引き渡しをヴィータウタスに求めてから両者の関係は悪化した。ヴィータウタスは、この農民たちは自由人であり、どこに住むか自分たちで決める権利があると主張した。両者の対立は外交で解決できず、戦争にまでもつれこんだ。
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