駿豆鉄道バスの小田原乗り入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 13:27 UTC 版)
「箱根山戦争」の記事における「駿豆鉄道バスの小田原乗り入れ」の解説
1947年の時点で、駿豆鉄道では小涌谷と元箱根を結ぶ路線バスを運行していたが、同年9月に運輸省に対して、この路線を小田原まで延長する路線免許の申請を行った。これは通勤通学の利便性向上とともに、大雄山鉄道を1941年に合併して以後同社の大雄山線となっていた鉄道路線との一貫輸送をはかるという目的であった。しかし、これに対して、まだ東急の傘下にあった箱根登山鉄道は強く反対した。この延長区間は既に箱根登山鉄道バスが運行されていた区間であり、小田原と元箱根を結ぶ区間は箱根登山鉄道バスにとっては重要な路線であったからである。 しかし、戦前は自動車交通事業法によって1路線1営業が原則とされていた ものの、戦後に私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)が施行されると、独占は許されなくなっていた。また、当時の箱根登山鉄道では戦時中に休止となっていたケーブルカーの再開やアイオン台風による被害の復旧に注力していた ため、箱根登山鉄道バスの整備が遅れていた。こうした状況から、地元では駿豆鉄道バスの乗り入れには賛成する意見も多かった。運輸省では1949年12月に公聴会を行った上、延長区間では駿豆鉄道バスの乗降を扱わないことや運行便数の制限などを設定した上で路線免許を交付した。
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