香港ポップス史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 14:54 UTC 版)
1960年代以前、演奏される場所としての酒屋や演奏会などでは、英語や北京語などが推奨された。当時、祖·尊尼亞(ジョー・ジュニア/Joe Junior)や、黎愛蓮(アイリーン・ライダー/Irene Ryder)、泰迪羅賓(テディ・ロビン/Teddy Robin)等の歌手が英語で流行曲を歌っていた。上流社会の欧米人が中心となっており、当時華人は社会的な地位が低かったので、経済的に余裕のある裕福層にしか縁のない物であった。 香港ポップスがメディアに登場したのは1960年代の香港映画が発祥で、香港映画が流通していた東南アジアにも強く影響を与え、映画のテーマ曲や挿入歌を歌った著名な人物としては譚炳文や鄧寄塵、鄭君綿などがいる。 その後、1970年代には蓮花樂隊の許冠傑(サミュエル・ホイ/Samuel Hui)がスターになり、1980年代には譚詠麟(アラン・タム)や張國榮(レスリー・チャン)など、ロックバンドではBEYONDが活躍した。 1980年代から1990年代にはJ-POPのカバー・ブームがあった。 1990年代は、黎明(レオン・ライ)、郭富城(アーロン・クオック)、劉德華(アンディ・ラウ)、張學友(ジャッキー・チュン)の四大天王による寡占状態が続き、市場が比較的狭い香港では新人が彼らを上回る事は困難であった。 2000年頃には、香港に進出した小室哲哉がサポートする、CELINAやZoieがデビューしたが、小室サウンドは香港では商業的に成功しなかった。
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