養兎事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/06 16:12 UTC 版)
卯の年生まれの因縁で、日本人の食生活にたんぱく源としての兎肉の摂取を奨励した。1888年(明治21年)に大阪に赴いた際、「大阪兎会社にいたり養兎の業を見る」という記述が年譜上は養兎業との最初の接点である。翌年12月には再び同社を訪問し、役員と会見して養兎事業を研究している。1890年(明治23年)1月には本格的に養兎事業の普及を図ることを決意し、大日本養兎改良義会を設立して会長に就任。執筆活動では、会誌の中で富国策、救荒策、改良策、養兎のすすめ、放牧策、興農策、軍用策、対外策などの論考を続々寄稿し、これらを1897年(明治30年)に『養兎真論』および『養兎道しるべ』として単行した。その後は1915年(大正3年)に『大日本養兎史』、1918年(大正7年)に『続大日本養兎史』を発行。1921年(大正10年)には『養兔の友』を発行し、同年『続養兎真論』など数冊を著している。「養兔新聞」「実業養兔新聞」等の新聞や専門雑誌上でも数々の寄稿を行っている。 1928年(昭和3年)5月9日、養兎事業の推奨を行って久しい中、日本国内に養兎神社がないことを憂慮し、出身地深安郡湯田村の私有地に建設した。祭神は、養兎守護としてその昔、負傷した兎の難を救った大国主命である
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