須賀田の死
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"第二絃樂四重奏"は演奏拒否にあったが、その後もたとえ演奏のあてが無くとも、須賀田はオーケストラ作品を書き続けた。代表的なものに「ピカソの絵」作品二十三(1949)、バレエ音楽「生命の律動」作品二十五(1950)、「日本舞踊音楽集」(1950)がある。1952年(昭和27年)に入り須賀田の持病である肺結核の症状は悪化し、作曲時意識が朦朧とする事もあったという。自らに残された時間が多くない事を悟った須賀田は、書きためた作品のフルスコアをプログラム等の資料と共にトランクに収める作業に着手、「須賀田礒太郎作品目録」を添え、静かにその蓋を閉じた。1952年(昭和27年)7月5日、須賀田礒太郎は故郷・横浜に二度と戻る事なく、田沼町の自宅で45年の生涯を閉じた。現在須賀田の墓は田沼町 (現・佐野市) の慶安寺にある。姪の黒澤陽子は語る。 伯父はずっと肺結核と戦い続けた一生でしたが、その全ての時間を自分の作曲に充てる事が出来ました。その意味では、幸せだったのではないでしょうか。 しかし須賀田の作品が詰められたトランクは、その死後47年もの間一度も日の目を見る事なく、田沼町の蔵の片隅で眠り続けた。
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