順正の「父」として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 22:58 UTC 版)
このように実行力に富み厳格で男勝りにして、されど母に勝る慈愛を持っていた福西は、本来は女性にもかかわらず教え子より「順正のお父さま」と恐れられながら慕われた。 実際、福西は女学校においては、いわゆる現代に言うところの実学主義をとっていたために風紀や躾に厳しく、特に社会に出て(ないしは家庭に収まれども)有用な人材になれるようにと学問と技術を教授する事に情熱を注いだとされる。方谷の弟子であった頃の教育のため、時に知識のみを詰め込み論じ社会実態に乖離して論を展開させて理想を語る形による、いわゆる「学問のための学問」にはかなり批判的で、そのため時に学問知識に偏重して志向する生徒らとの衝突もあったといわれる。それはすなわち生徒への愛情ゆえの厳しさや、彼女らの将来を案じての苦言であったわけだが、その様は、まさに「母」とするには苛烈で「父」と形容するに足るものであった。福西の指導に心を疲弊させた生徒のメンタルケアを担当したのは、彼女の盟友であった「順正のお母さま」木村静であり、初期順正女学校の慈愛精神は、この二人の「愛の両輪」こそがそれを支えていたのである
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