音楽家・美術家との出会い
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「ジャン・カスー」の記事における「音楽家・美術家との出会い」の解説
1925年、哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチの姉でパリ国立高等音楽院ピアノ部門を首席で卒業したイーダ・ジャンケレヴィッチに出会って結婚。彼女を介して多くの音楽家に出会い、とりわけ新古典主義音楽に親しんだ。小説家・評論家のエドモン・ジャルー(フランス語版)の紹介により、1925年に最初の小説『狂気礼讃』、翌26年に『黄昏のウィーン』を発表。これを機に、『欧州評論』、『パリ評論』、『新フランス評論』、『ジュネーヴ評論(フランス語版)』、『週刊評論(フランス語版)週刊評論』などに寄稿するようになり、バルテュスの母でライナー・マリア・リルケの最後の恋人ナタリー・クリフォード・バーネイのサロンに出入りし、シャガール、レオポルド・シュルヴァージュ(フランス語版)、ジョゼフ・シマ(フランス語版)らのモンパルナスの画家と出会った。1927年から6年にわたってラルース出版社(フランス語版)発行の『文学新報』の詩のコラムを担当し、1935年にこの記事をまとめて『詩のために』として出版した。また、1932年には作家と社会の対立関係を論じた『トルストイの偉大さと恥辱』を著している。
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