鞍谷氏のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 15:21 UTC 版)
応仁の乱後、朝倉氏が名実ともに守護となると鞍谷氏は朝倉氏の客将化し、越前随一の名門として、また代々朝倉氏と姻戚関係を結んで一定の権威を保持した。鞍谷御所嗣知の息女は朝倉義景の側室になっている。後に足利義昭が義景に庇護を求め、兄である将軍義輝を討った三好三人衆と松永久秀を討伐するための出兵を求めてきたとき、義昭の従者であった明智光秀が義景に取り入って家中に勢力を築いたが、嗣知は義景に讒言して光秀を退けたという。足利義昭も義景が討伐の兵を挙げないことにしびれをきらせ、光秀も朝倉家中において立場を失ったことから、主従は尾張の織田信長を頼ったが、皮肉にもこれで大義名分を得た信長によってやがて朝倉氏は滅ぼされる。以後の鞍谷氏の事績は明らかではないが、信長の武将である佐々成政に仕えた鞍谷民部少輔の名が見える。
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