霜の墓抱き起されしとき見たり
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評 言 |
江東区北砂、境川交差点から西を見ると、角地にあった銀行の焼跡、いまでは一般住宅になっているが、更に「…神殿も社務所もなく、鳥居も燈籠もくづれ落ち、石階の御影石が白く春日に輝いていた」志演神社、「妻の父の店のあつたところで、…店の裏手の低い地に、埼玉から運んできた十六坪程の家が建つてゐた」石田家、更に問題の墓があった妙久寺と続き、墓地の先は貨物線で区切られている。境川は波郷が住んだころ既に埋められ、広い通りになっていたが、子どもを遊ばせた志演神社、植木が生い茂る石田家はいまも人が住んでおり、霜の墓が立つ妙久寺も、当時の面影を僅かながら残している。 この作品で抱き起こされたのは墓か作者か、という論議を呼んだのは大方ご承知のことだが、『石田波郷全集』についてきた月報に山本健吉、森澄雄、角川春樹による鼎談が掲載されており、そこで森澄雄は「…霜の墓が抱き起こされたと解釈…」して波郷論を書いたところ、「…山本先生が『馬酔木』にお書きになって、俳句の切れというものが分かっていないということをいわれた」ので、自分の解釈が間違いだったと気付いたと発言している。 波郷の「家」という随想には「八畳の間半分を板 敷にしてベットを入れ、押入れを壊し無双窓をはめ 込んだ。ベットの横の窓をひらくと、荒果てた空地に草が生茂り、その向うに百千の墓が頭を白くかがやかして群立してゐるのが見える」とある。あき子夫人の書いたものの中にも、寝ていた「波郷を抱き起こしたとき、裏窓越しに霜の墓が見えたのです」とあるから事実関係としては争う余地はないが、抱き起こされたのは霜の墓と解釈するのは、間違いであるとする意見には、作品には作者名も含まれるという考え方があるからではないだろうか。 <写真左の白い塀は妙久寺、その右隣は石田波郷宅跡、さらに右隣は志演神社> |
評 者 |
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備 考 |
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