隠居、松戸・戸定邸へ
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明治16年(1883年)1月に長女・昭子が生まれるが、翌2月産後の肥立ちが悪く妻・盛子が死去する。5月に隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲った。翌年には、生母秋庭を伴い戸定邸(千葉県松戸市)に移った。やがて明治25年(1892年)、次男の武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設している。 自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を有した。隠居後、盛んに静岡と往来し、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた。写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお多くの写真が残されている。 また造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地にあたる区画に西洋式庭園を築いて植物の栽培を手がけている。その庭は与謝野晶子が和歌に詠んだ「松戸の丘」である。 慶喜が1897年(明治30年)の秋に東京の巣鴨に移った翌明治31年(1898年)に篤敬が44歳で死去。遺児の圀順が11歳で水戸徳川家当主となり、昭武が後見となる。 明治43年(1910年)7月3日、小梅邸にて死去した。享年58。
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