閔妃一派によるクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
「李氏朝鮮」の記事における「閔妃一派によるクーデター」の解説
大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。 1875年に江華島周辺で停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件(江華島事件)が発生し、翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪した。それ以降、閔氏一族らを主流派とする閔氏政権は、大院君の攘夷政策から一転して開国政策に切り替え、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。
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