閔妃揀択
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
神貞王后は一族の勢力を強化するため、同族の趙冕鎬の娘を高宗の后にしようとするが、大院君が反対し失敗に終わる。1865年、大院君は急遽、王后揀択を試みた。これは、権門勢家の政治的影響力を削ぐための方策であったが、その存在を無視することもできず有力候補はほぼ権門勢家の娘であった。結局、驪興府大夫人閔氏が積極的に遠縁の閔妃を推薦したので、権門勢家の影響も考慮して閔妃を王后に指名した。閔妃は王后となって間もない頃は大人しく従順だったが、夫である高宗の無関心や大院君の態度のため、次第に大院君を敵視した。高宗の寵愛する李尚宮が長子・完和君を出産すると大院君は歓喜し、一方その頃から閔妃に対しては無視するなど冷酷な態度を取るようになり、閔妃との軋轢が生じた。
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