開産社の苦悩と解散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 03:06 UTC 版)
倉澤清也が開産社社長となった明治14年、開産社は県の保護干渉を脱し、完全な民営となる。しかしながらこの後開産社に待っていたものは、決して平坦な道ではなかった。明治14年ごろは、不換紙幣の暴落により、この対策として、紙幣整理政策が実行されつつあり、物価は暴落し、経済の不振により貸付金の回収は滞った。開産社の織物工場も損失が多く、経営困難となり、明治16年には民間人に貸与し、事業継続を図るに至った。このような困難な状況下で、倉澤清也以下新たに選出された人たちは、鋭意この回収整理に努め、県借用金及び、大蔵省拝借金等順次償還を行った。明治17年7月より明治18年6月までの開産社考課帖付属標によると、金1,776円29銭9厘の純利益を出している。しかしこの時期、各地に設立された銀行は、ほぼ同様の業務を司る開産社存続の意義を減じ、明治18年9月の通常総会成義案に開産社の解散分離の議案が提出されるに至り、貸付金の回収がほぼ終了した明治21年、開産社はその役目を終えて解散する。結局、拝借金は全て完済し、貸付金を含む総資産53,000円余りの資産を計上し、これを最初の積穀高に按分し各郡に分配した。
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