長囲戦への転換・木葉の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
「西南戦争」の記事における「長囲戦への転換・木葉の戦い」の解説
22日夜半、本荘に移された本営で作戦会議が開かれた。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍介が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する。 23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は2手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。 植木、木葉で立て続けに勝利した薩軍では一気に第14連隊を追撃して進出すべきとの意見も出たが結局は植木まで兵を引いてしまう。更に熊本城強行策を捨てきれない篠原や別府らの隊は、23日も引き続き熊本城攻撃を続行。砲隊も加わり翌24日も攻撃を続行するが戦果ははかばかしくなく、結局包囲を池上隊3000名で実施しつつ、桐野隊が山鹿方面、篠原隊が田原方面、村田隊別府隊が木留方面に進出し、南下してくる政府軍主力を待ち構える事となり、小倉への電撃作戦は失敗した。
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