金門防衛と晩年
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1946年(民国35年)に李良栄は整編第28師師長に任ぜられ、陸軍少将銜を授与される。翌年夏、第1兵団第2縦隊司令に任ぜられて山東解放区へ進攻、孟良崮の戦いにも参戦した。その後、整編第23軍軍長、第9綏靖区司令官を歴任する。1948年(民国37年)9月、福建省政府主席に任ぜられ、あわせて陸軍中将銜を授与された。しかし、1949年(民国38年)1月に早くも省政府主席から退き(後任は朱紹良)、4月には福州綏靖公署副主任、7月には第22兵団司令官兼廈門警備司令をそれぞれ務めている。8月、李は部隊を率いて金門島に退き、湯恩伯配下の金門防衛司令としてここを固守することになる。10月24日、中国人民解放軍が上陸作戦を開始したが、李は懸命に抗戦して撃退に成功した。 同年末、李良栄は台湾に移り、第3期台湾省臨時省議会議員、第1期台湾省議会議員、光復大陸設計研究委員会(中国語版)委員を歴任した。1957年(民国46年)7月、マレーシアに渡り、現地華僑の建築家である林添良らと馬来亜工鉱公司を設立している。1962年には大石水泥公司を設立し、常務理事兼総経理となった。 1967年6月2日、マレーシアのイポーで自動車事故に遭い死去した。享年59(満58歳)。
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