遼の高原支配とその後の分裂時代とは? わかりやすく解説

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遼(契丹)の高原支配とその後の分裂時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:52 UTC 版)

モンゴルの歴史」の記事における「遼(契丹)の高原支配その後分裂時代」の解説

4世紀以来大興安嶺山脈東側には契丹キタイ)という遊牧民族居住しており、長い間時の強国支配受けてきたが、10世紀になって強大化し部族長耶律阿保機の代に内モンゴル中心に大帝国築いた契丹漠北モンゴル高原進出し928年ケンテイ山脈以東に住むタタル「烏古」を征服して契丹の軍を駐屯させ、1000年までにはケンテイ山脈以西に住むタタル阻卜」を征服した1004年契丹帝国(遼)はウイグル故城一つオルホン川トーラ川の間のカトンバリクの地に、モンゴル高原統治する拠点鎮州建安軍」を置いた1115年黒龍江アムール川下流域狩猟民族女真(ジュシェン)」の部族長のひとり、完顔阿骨打(ワンヤン・アグダ)が遼から独立して自ら皇帝となり、「金」を建国した。1125年金軍モンゴル高原最後の遼皇帝を捕えて遼を滅ぼし、遼が支配していた領土そのまま受け継いだが、狩猟民族であった女真族漠北草原地帯まで支配が及ばなかった。そのため、モンゴル高原モンゴルケレイトメルキトナイマンといった諸部族割拠する時代入りモンゴル帝国現れるまで統一政権生まれなくなる。

※この「遼(契丹)の高原支配とその後の分裂時代」の解説は、「モンゴルの歴史」の解説の一部です。
「遼(契丹)の高原支配とその後の分裂時代」を含む「モンゴルの歴史」の記事については、「モンゴルの歴史」の概要を参照ください。

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