遼(契丹)の高原支配とその後の分裂時代
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「モンゴルの歴史」の記事における「遼(契丹)の高原支配とその後の分裂時代」の解説
4世紀以来、大興安嶺山脈の東側には契丹(キタイ)という遊牧民族が居住しており、長い間、時の強国の支配を受けてきたが、10世紀になって強大化し、部族長の耶律阿保機の代に内モンゴルを中心に大帝国を築いた。契丹は漠北のモンゴル高原に進出し、928年にケンテイ山脈以東に住むタタル「烏古」を征服して契丹の軍を駐屯させ、1000年までにはケンテイ山脈以西に住むタタル「阻卜」を征服した。1004年、契丹帝国(遼)はウイグル故城の一つ、オルホン川とトーラ川の間のカトンバリクの地に、モンゴル高原を統治する拠点「鎮州建安軍」を置いた。 1115年、黒龍江(アムール川)下流域の狩猟民族「女真(ジュシェン)」の部族長のひとり、完顔阿骨打(ワンヤン・アグダ)が遼から独立して自ら皇帝となり、「金」を建国した。1125年、金軍はモンゴル高原で最後の遼皇帝を捕えて遼を滅ぼし、遼が支配していた領土をそのまま受け継いだが、狩猟民族であった女真族は漠北の草原地帯まで支配が及ばなかった。そのため、モンゴル高原はモンゴル、ケレイト、メルキト、ナイマンといった諸部族が割拠する時代に入り、モンゴル帝国が現れるまで統一政権が生まれなくなる。
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