遠藤機の最後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 15:05 UTC 版)
1943年(昭和18年)5月、中国軍が桂林より増派との情報により、その根拠地、昆明飛行場を爆撃し、日本軍機の数倍の敵の兵力に対して、5月15日爆撃が敢行された。その直援隊として遠藤中隊は爆撃隊の左側上の位置を護り、他機ともに攻撃を受けることなく昆明飛行場爆撃を成功させた。帰路に向けて旋回の直後、P-40 戦闘機多数の奇襲を受けた。爆撃機護衛位置の遠藤隊は後上方よりP-40 の襲撃を受け、遠藤機と中隊の3機は機首をめぐらし突進したところ、十数機に包囲され、それを撃退して編隊飛行に戻ったところ、再び敵機の編隊攻撃を受けた。遠藤機は、敵P-40戦闘機を一機撃墜後、ほぼ同時に昆明湖南方に墜落するのが目撃された。遠藤中尉は最後の出撃となる15日の早朝、空を見上げて「きょう昆明で死ぬのは本望だな」と同僚の檜與平中尉に言い、「おれが死んだら、きさまにあの尺八をやるよ」とかわいた目で檜中尉を見つめたという。彼の遺品をまとめた檜中尉によれば「部屋には、磨きあげられた尺八と、封の切られていない遠藤中尉の若妻からの手紙が残されていた」という。
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