過去に存在した湖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:56 UTC 版)
現在ある人造のダム湖の名は五十里湖と名付けられているが、かつて江戸時代にも天然ダムによる堰き止め湖があった。1683年(天和3年)、関谷断層が動いたためとされる日光地震(推定M7.0)が起き、現在の葛老山の山体が北東側に崩れて男鹿川を堰き止めた(現在の湯西川温泉駅から2kmほど下流の海尻橋付近。海尻という小字名はかつての湖尻に因む)。五十里宿は街道ごと湛水したダム湖に底に沈んでしまった。会津藩は排出路工事を行い街道の復旧を計ったがうまくいかず、江戸往来への迂回路に那須連山を抜ける会津中街道の整備を余儀なくされた。この堰き止め湖は堰堤底からの高さが70mほどもあり、湛水面積は現在の五十里湖より大きかったという。堰き止め湖は40年後の1723年(享保8年)、秋の長雨と台風による増水で決壊し、合流する鬼怒川の下流で約1,200人が洪水で死亡した(五十里洪水)。なお、この洪水で洗われた川岸で湯が湧き出し、これが川治温泉だという。これらは当時の寓話を集めた「月堂見聞集」「慶安元禄間記」などの他、日光東照宮の輪番記録にも残されている。
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