進まない着工と民間による敷設計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:52 UTC 版)
「大間線」の記事における「進まない着工と民間による敷設計画」の解説
1922年(大正11年)施行の鉄道敷設法で敷設予定が決まったのにも関わらず着工が遅れた。理由は沿線人口が少なく採算性に難があったから予算化ができなかった。1928年(昭和3年)に民間の「大間鉄道」による敷設が計画され、田名部-大畑-大間間の免許を申請。うち大畑-大間間の免許が下りた。翌1929年(昭和4年)には田名部-大畑間の免許も追加取得することができた。しかし昭和恐慌(1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年))により着工ができなかった。 大間鉄道は発起人は高橋辰次郎ほか七名で、その中には堤清六をはじめ、函館の平塚常次郎、太刀川善吉、岡本康太郎が名を列ねており、函館での大間函館航路開設を視野に据えて同鉄道敷設を考えたものとしている。同時期に北海道本土連絡鉄道、斗南軌道からも免許申請が出ていた。
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