連載開始に至る経緯
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1972年6月、『天才バカボン』他で第18回文藝春秋漫画賞を受賞した赤塚は、『文藝春秋』誌上にて、井上ひさしの戯曲をコミカライズした『ひさし笑劇場』(1972年8月号〜1973年11月号連載。1972年11月号より隔月連載。)の連載依頼を受ける。 劇場プログラムの二本立て興行のように、文字と漫画をドッキングさせたこのコラボ企画の面白さに目を付けた当時『週刊文春』の編集長であった宮田親平は、赤塚漫画の新連載を同誌上にてスタートしてみはどうかと発案。『ひさし笑劇場』の連載開始と同時期に、受賞記念で「オール読物」に再録した『天才バカボン』の「ミュージカルでバカボンなのだ」(『週刊少年マガジン』1972年15号)と同じく受賞を祝し、『週刊文春』誌上に掲載した中編読み切り『護送』が好評を博したことも『ギャグゲリラ』連載開始の誘因となった。 それまで一般週刊誌に掲載される漫画は、1コマ、2コマ、1ページ、2ページが通常であったが、『護送』の掲載に際しては、異例ともいえる12ページものページ数が与えられ、『ギャグゲリラ』の連載開始の際にも、毎回8ページという紙幅が用意された。 当時、少年漫画週刊誌、少年漫画月刊誌が主なる活躍の場だった赤塚にとって『週刊文春』という超メジャー級の一般週刊誌に連載を持つことは夢であり、目標であった。 そのため、赤塚の『ギャグゲリラ』に懸ける意欲も並々ならぬものがあり、当時、毎日が締め切りというタイトスケジュールでありながらも、連載第一回目では、下絵だけではなく、赤塚自らペン入れからベタ入れまでこなし、丸々一話を一人で完成させたという。
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