足利義勝・義政の時代
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嘉吉元年(1441年)6月の嘉吉の乱で義教が暗殺されると出家しているが職務はそのまま続け、管領細川持之が申請した赤松満祐追討の綸旨を三条実雅の屋敷にて手交されている。その後も管領畠山持国任命の使者や禁闕の変の際の内裏炎上に伴う再建事業を含めた事件処理や斯波氏の内紛の仲介などにあたり、宝徳元年(1449年)に管領細川勝元が辞意を表明した際には諸大名や伊勢貞親とともに慰留に努めている。 足利義持の時代から多くの訴訟の裁決や奉書の作成に関わり、義教・義勝・義政と3代の将軍の下で公人奉行・評定衆を務めた為種の存在感は幕府の奉行の中でも別格扱いとされて朝廷や諸大名からも重んじられ、康正2年1月10日(1456年2月15日)には異例の従四位下に叙せられた。ただし、この頃より病気がちになって既に息子の為数が家督を継いでいた形跡が見られ、その2年後に病死している。
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