越冬、1911年
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1911年4月23日、太陽が昇らない冬季となり、隊はエバンス岬の小屋に入った。スコットの海軍のやり方に従い、小屋は包装用の木枠で作られた壁で仕切られたので、士官とその他はほとんど別の存在で生活し、科学者たちはこの点では「士官」と見なされた。誰もが忙しくしていた。科学者は観測と計測で働き続け、機械類は分解修理されて将来の旅に備えた。残っていたポニーは日々の運動が必要であり、犬達は定期的な注意を必要とした。スコットは多くの時間を割いて、来るべき極点行のために橇に積む食料と重さを計算していた。日常の活動には、幅広い科目に関する定期講義も入っていた。ポンティングは日本について、ウィルソンはスケッチについて、オーツは馬の管理について、地質学者のフランク・デベナムは火山について講義した。体力を維持するために、小屋の外で薄明りのときにフットボールのゲームが頻繁に行われた。スコットは「アトキンソンがこれまで見た限り最良のプレーヤーだが、フーパー、P・O・エバンス、クリーンも大変うまい」と記していた。ディスカバリー遠征のときにシャクルトンが創刊した「サウス・ポーラー・タイムズ」が、チェリー=ガラードの編集で復刊された。6月6日、スコットの43歳の誕生日を祝うために祭が設定された。6月21日の2回目の祭りは冬至の日であり、長い極夜の中間点だった。
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