赤松政秀とは? わかりやすく解説

赤松政秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/18 04:24 UTC 版)

 
赤松 政秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正7年(1510年)?
死没 元亀元年11月12日1570年12月19日
別名 宇野下野守、宇野政秀
戒名 徳雲院俊嶽性哲大禅門
官位 下野守
幕府 室町幕府
主君 浦上宗景
氏族 赤松氏(龍野赤松氏)
父母 父:赤松村秀
兄弟 政秀、平井祐利、川島頼村
赤松晴政の娘
広貞、斎村政広祐高さこの方
テンプレートを表示

赤松 政秀(あかまつ まさひで)は、戦国時代後期の武将播磨国龍野城主。祖父と同様、宇野下野守とも称される。

生涯

播磨龍野城主・赤松村秀の子として誕生した。

天文10年(1541年)、父・村秀が死去し、跡を継ぐ。政秀は智勇に優れた人物で、赤松晴政の嫡男・義祐を擁する浦上政宗置塩城を追われた晴政を保護し、永禄9年(1566年)に政宗を討つなど、赤松氏の再興に尽力した。

主家である赤松義祐との関係は決して良好ではなく、庇護していた晴政が病死すると義祐と一時的に和睦したが、やがて対立して独立勢力化し、室町幕府15代将軍足利義昭および織田信長との同盟を画策し、義祐と対立した。

また、浦上氏の同盟者であった小寺氏とはその後も激しく対立し、東播磨の実力者である別所安治と手を結んで、小寺政職やその家臣・黒田職隆と戦い、西から侵攻してきた政宗の弟の浦上宗景(ただし政宗とは別家)とも戦った。

しかし、小寺氏の家臣・黒田孝高の奇襲により大敗し、多くの有力家臣が戦死した(青山・土器山の戦い)。軍事的な抵抗力を失った政秀は浦上氏の前に降伏を余儀なくされ、永禄12年(1569年)11月に宗景に降伏、西播磨における覇権を失う。

元亀元年(1570年)11月12日、浦上宗景の手のかかった人間に毒殺されたという。

系譜

関連作品

映像




固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から赤松政秀を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から赤松政秀を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から赤松政秀 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「赤松政秀」の関連用語

赤松政秀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



赤松政秀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの赤松政秀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS