赤松祐高とは? わかりやすく解説

赤松祐高(あかまつ すけたか) ????~????

曽谷
◇父:赤松政秀 子:曽谷太郎新兵衛尉祐則
 播磨赤松氏一族。兄広英と共に羽柴秀吉中国侵攻に降る。後に半田山家鼻城主として1万石を得る。しかし、関ヶ原の合戦で兄広英は自害し、祐高も流浪大阪夏の陣では大阪方として入城したが、落城播磨戻り自害した

赤松祐高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/22 14:25 UTC 版)

 
赤松祐高
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄2年(1559年
死没 慶長20年5月28日1615年6月24日
官位 伊豆守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 赤松氏
父母 赤松政秀
兄弟 広貞、斎村政広祐高さこの方
祐則
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赤松 祐高(あかまつ すけたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将

生涯

永禄2年(1559年)、赤松政秀の子として誕生。天正5年(1577年)、中国地方に侵攻してきた織田氏の家臣・羽柴秀吉に兄・斎村政広と共に降伏する。以後も秀吉に従い、半田山家鼻城1万石を領す。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは兄同様、始め石田三成の西軍に与するが、徳川方の東軍に寝返る。兄政広の切腹後に流浪した。

大坂の陣では浪人衆として、豊臣秀頼に仕え大坂城に篭城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に篭るが、池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救わんとして切腹した。享年57。

嫡男・祐則は半田山で帰農し、郷長となる。子孫は曽谷氏と称し、現在に至る。

参考文献




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