赤松政秀との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:28 UTC 版)
永禄11年(1568年)9月、織田信長の協力を得た足利義昭が征夷大将軍(室町幕府第15代将軍)に就任すると、赤松政秀は自分の娘を義昭の侍女として仕えさせようとした。義祐は宗家を無視して勝手に将軍と結び付きを深めようとする政秀に怒り、御着城主小寺政職に命じて京へと向かう政秀の娘を拉致させ、政秀を「無道の仁」として糾弾し、備前の浦上宗景へと挙兵を促し政秀を挟撃して討ち果たさんとした。要請を受けた宗景もこれを勢力伸長の好機と捉え、備作衆を率いて播磨に侵攻し、政秀の領地を脅かした。翌永禄12年(1569年)2月には、解放された政秀の娘が京へと着くが宗景は相変わらず政秀を攻め立て、政秀は足利義昭に救援を求めた。
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