赤松家復興とは? わかりやすく解説

赤松家復興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 01:19 UTC 版)

宇野政秀」の記事における「赤松家復興」の解説

享徳3年1454年)、赤松氏復興目指す赤松則尚挙兵呼応して兵を挙げたのが政秀の初見とされる。この挙兵は翌享徳4年1455年)には山名宗全によって鎮圧され、則尚は自害追い込まれたが政秀は山名軍の追跡をかわし姿をくらました。後に長禄の変における神璽奪回の功によって長禄2年1458年)に赤松政則加賀半国守護任じられ、赤松家復興を果たすと政秀もその家臣の列に加わった京都にて浦上則宗侍所所司代務めながら幼主赤松政則補佐をする一方で、政秀は堀秀世らと共に嘉吉の乱で宗全ら山名氏統治するところとなった赤松旧領播磨国向かい赤松旧臣糾合して山名氏対抗した。政秀の播磨掌握速やかに行われたようで、早くも応仁元年1467年12月頃には諸役免除などの文書発給している。この政秀の統治文明15年1483年)の山名氏侵攻まで保たれた。 政秀の他の活動としては、応仁の乱東軍属して畿内転戦文明元年1469年10月備後国守護山名是豊(宗全の次男だが父に反抗していた)の軍勢加わり摂津国兵庫大内政弘の軍を破り文明3年1471年)からは宇野上野入道浦上則宗と共に交通の要衝である山城山崎城守備任されていたが、翌文明4年1472年8月西軍畠山義就急襲敗れて城を放棄したことが知られる

※この「赤松家復興」の解説は、「宇野政秀」の解説の一部です。
「赤松家復興」を含む「宇野政秀」の記事については、「宇野政秀」の概要を参照ください。

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