赤松家復興
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享徳3年(1454年)、赤松氏復興を目指す赤松則尚の挙兵に呼応して兵を挙げたのが政秀の初見とされる。この挙兵は翌享徳4年(1455年)には山名宗全によって鎮圧され、則尚は自害に追い込まれたが政秀は山名軍の追跡をかわし姿をくらました。後に長禄の変における神璽奪回の功によって長禄2年(1458年)に赤松政則が加賀半国守護に任じられ、赤松家復興を果たすと政秀もその家臣の列に加わった。 京都にて浦上則宗が侍所所司代を務めながら幼主・赤松政則の補佐をする一方で、政秀は堀秀世らと共に嘉吉の乱で宗全ら山名氏の統治するところとなった赤松旧領の播磨国に向かい、赤松旧臣を糾合して山名氏に対抗した。政秀の播磨掌握は速やかに行われたようで、早くも応仁元年(1467年)12月頃には諸役免除などの文書を発給している。この政秀の統治は文明15年(1483年)の山名氏の侵攻まで保たれた。 政秀の他の活動としては、応仁の乱で東軍に属して畿内を転戦、文明元年(1469年)10月に備後国守護・山名是豊(宗全の次男だが父に反抗していた)の軍勢に加わり摂津国兵庫で大内政弘の軍を破り、文明3年(1471年)からは宇野上野入道や浦上則宗と共に交通の要衝である山城山崎城の守備を任されていたが、翌文明4年(1472年)8月に西軍の畠山義就の急襲に敗れて城を放棄したことが知られる。
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