賞金増額闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/07 02:06 UTC 版)
「KEIRINグランプリ'89」の記事における「賞金増額闘争」の解説
1985年度以降、競輪の年間総売り上げは4年連続で対前年対比で増加し、当年度もバブル期であったこともあり、同対比で2桁のパーセンテージ増加が見込まれていた。 ところが当時、中央競馬、競艇が当時大幅に賞金総額を増額していた背景がある一方、競輪の選手賞金総額は前年総売り上げ見通しの3%程度という長年の慣例が踏襲されたままとなっていた。そのため、このままでは、特に競艇との賞金総額格差が拡大する一方だとして、当時日本競輪選手会理事長であった片折行(かたおり あきら)が中心となり、全国競輪施行者協議会(以下協議会)を通して主催者側上層団体に対し、1990年度において前年比約25%となる賞金総額の大幅増額を求め、受け入れられないようならば、当年のKEIRINグランプリ'89(以下グランプリ)を含む立川競輪S級シリーズの先頭誘導員を斡旋しないストライキにより中止させるとする、強硬手段を表明した。 主催者側はあまりにもアップ率が高すぎるとして、選手会側の要求を拒否した。選手会側も、さすがに約25%の増額は高すぎるとして、片折は当該要求数字については撤回して譲歩したものの、売り上げ増が堅調に推移している背景を理由として、2桁=10%以上のパーセンテージの賞金総額増加を要求する姿勢は見られなかった。対して主催者側は、いわゆる「3%ルール」を変える姿勢が見られなかった。 このため、交渉は双方の決裂が続き、次第に選手会側がちらつかせていたグランプリの中止が現実味を帯びる展開となっていった。
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