買収と再度の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 01:29 UTC 版)
そこで会社が担ぎ出したのが、地元山梨県出身で数々の鉄道会社経営に関わりその辣腕を見せつけていた雨宮敬次郎であった。「軽便王」とあだ名されたくらいに軽便鉄道運営に力を注いだ雨宮はこれを引き受け、1905年5月に一旦同じ実業家の小野金六との共同経営にした後、新会社山梨軽便鉄道を設立して翌1906年12月1日に山梨馬車鉄道の路線を譲り受けた。なおこの際、本社を市街地北東部の下一条町から市街地南の太田町に移転している。 当初は雨宮もかなり経営には苦労したようで、「軽便」の社名通りに当社の路線を馬車鉄道から蒸気動力化・電化することを考えて申請を行ったが失敗し、さらに1907年には大洪水で全線不通となってしまい、「洪水で大打撃を受けた上に石和方面の路線は競合が激しくて駄目かも知れない」と鉄道省への報告書の中で弱音を漏らしたりもしている。 そのような失敗や低迷があったにもかかわらず、大正に入ると急速に経営が立ち直ってついには前身の山梨馬車鉄道時代よりも隆盛を極めることになり、株主への配当が最高で7割にまでなった。この大正中期、1920年前後が同線の全盛期だったと言ってよい。
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