象の居た辺りを歩くしぐれ傘
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
冬 |
出 典 |
「あすか」 |
前 書 |
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評 言 |
象の居た辺り,がこの句の眼目である。この像は現実の象であろうか、作者の内に棲む象であろうか、前者と見た場合も、動物園にでも居た象か、実際にアフリカなどに居た象か想像が膨らみ、後者と見た場合には、際限なくいろんなことが想像できて素晴らしい句だと思う。 作者の作句心情である、ドッキリ、ハッキリ、スッキリ、に共鳴している筆者である(もっとも筆者は、スッキリ、ハッキリ、ドッキリの順であるが)が、作者は自己感動をドッキリといい、筆者は自己感動を読者にも感動させることをドッキリと考えているが、それは作句心情を中心として見るか、表現心情を中心として見るかするかの違いで、中身的には同じだと思っている。 句に戻ると、しぐれ傘が季語であるが、しぐれかな、としないで、しぐれ傘としたところが心憎い。しぐれ傘とすることで、作者の立つ位置がはっきりし、1人かどうかという想像も広がる。 17音から、あるものを心に秘めながら、しぐれに煙る道を歩いている作者が浮かんでくる。作者の師である「名取思郷」の俳誌「あすか」の創刊のことば「ここに集まったこの小さな集団は、大それた夢を追うものではない。ただしっかりと大地に歩を踏みしめながら明日への可能性を信じるものたちである。」を、17音にしたこの作品に感動を覚える。 この象は、師を通じ俳聖芭蕉にも通ずる大きな大きな象ではないだろうか。この作品に作者の俳句に対する熱い熱い情熱を見るのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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