豊島泰経の逃亡先について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 12:14 UTC 版)
「石神井城」の記事における「豊島泰経の逃亡先について」の解説
(以前の通説)最後に泰経(勘解由左衛門尉)は丸子城(神奈川県川崎市)からさらに小机城(神奈川県横浜市)に逃亡 (新説)足立方面からさらに北に逃げ、以後は行方不明 以前の通説では上記前者のようになっていたが、現在はこれも大半の研究者によって否定されている。主な理由は以下の通りである。 (1)『道灌状』には、「泰経を足立まで追いかけたが、遥か遠くへ逃げ去ってしまったので、諦めてその晩江戸城に戻った。翌朝、川崎の丸子に陣を張り丸子城を攻撃したところ、敵は小机城に逃げてしまったので、そのまま追いかけ陣を張った」となっているだけで、丸子城からさらに小机城に逃げ込んだのが豊島氏である、とはどこにも記されていない(伊禮正雄・葛城明彦は、これを「『鎌倉大草紙』作者の速読による誤解」としている)。 (2)足立から「遥か北」へ逃亡した泰経が翌朝川崎に現れるはずがない。 (3)泰経が、道灌と同盟関係にある吉良氏の領地・世田谷付近を通り抜けて丸子城に向かうことは不可能である。 (4)足立の北側から丸子までは直線距離で約30キロ。足立の「遥か北」まで逃亡したのち敵地を避けて迂回し、丸子まで向かうとなれば、その移動距離は40~50キロとなる。また、道灌は追跡を断念して夜に江戸城に戻り、翌朝丸子に向かっているのであるから、丸子城に籠もっていたのが豊島氏だとすれば、豊島方はひと晩にうちに40~50キロの距離を移動し、道灌もその逃亡先を明け方までに突き止めた、ということになる。理論上これは完全に不可能である。
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