警視庁柔術師範の久冨鉄太郎
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「澁川流」の記事における「警視庁柔術師範の久冨鉄太郎」の解説
渋川家七代目の渋川伴五郎英實の門人である久冨鉄太郎は明治時代に警視庁柔術師範となり警視流拳法の制定に携わった。また、久冨鉄太郎の渋川流柔術は別伝として乱取の技術も伝えていた。 久冨は幼年より七世渋川伴五郎に従い柔術を二十七年ほど学んだ。安政元年(1854年)に自家を飛び出し各流の各師範を訪ねて乱捕の技を試みた。朽木藩柔術師範の直村栄左衛門(起倒流)を訪ねた際に教えることは渋川流と違うが乱捕試合は大同小異であった。さらに各流を廻り沼津藩の柔術師範で投手を専らとしていた戸塚彦助(戸塚派楊心流)や江戸の磯又右衛門柳関斎源正足(天神真楊流)と会って教えを受けた。 戸塚彦助からは入門して戸塚派楊心流を学んでおり、戸塚一門の随身と言われていた。 明治維新以降は七年間柔術を放棄し公務に従事していたが、柔術が廃れることを憂いて明治9年(1876年)に上京。明治12年(1879年)に警視庁で柔術を教え始め、明治14年(1881年)の七世渋川伴五郎の後室の協力を得て四谷区南伊賀町一番地に渋川流の教場を設け渋川流と自信が編み出した乱捕を教えた。
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