詩人としての出発
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「ゲオルク・トラークル」の記事における「詩人としての出発」の解説
その後、トラークルは軍隊へ志願して1年間の兵役を務める。退役後の1912年、オスカー・ココシュカやカール・クラウス、ルートヴィヒ・フォン・フィッカー(雑誌『ブレンナー』(Der Brenner)の編集者)と知り合い、ココシュカが代表作『嵐の花嫁』を制作しているころには毎日そのアトリエに通っていた。特にフィッカーはトラークルの支援者として定期的に彼の詩を『ブレンナー』に掲載した。 トラークルの公刊された詩のほとんどはこの時期(フィッカーと知り合ってから自殺するまでのわずか2年間)に書かれてフィッカーの手で世に送り出されたものである。また、フィッカーは単行本としての出版のためにも骨を折り、その結果、生前唯一の作品集『詩集』(Gedichte)が1913年にウィーンでクルト・ヴォルフ書店によって出版された(第2詩集『夢の中のゼバスティアン』(Sebastian im Traum)もまもなく出版準備が整うが、第一次世界大戦の勃発により刊行が遅れたためにトラークルは完成した本を見ることができなかった)。 またこのころ、トラークルはある正体不明の大富豪からフィッカーを通じて匿名の寄付金2万クローネを送られる(公務員だった当時のトラークルは年収600クローネ)。この大富豪こそ、相続した莫大な遺産を有意義に使うため若い芸術家を育成する基金にしようと考え、フィッカーをエージェントとしてそれを実践していた哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインであった。他にウィトゲンシュタインから匿名の資金援助を受けた芸術家にはリルケ、ココシュカ、アドルフ・ロースらがいる。 実生活ではザルツブルクやインスブルックで薬剤師や役所の職員などいくつかの職を転々とするが、いずれも長続きしなかった。 市民生活への復帰が絶望的になったのと同時に、嫁いで間もない最愛の妹マルガレーテが死産して彼女自身も危篤状態に陥ったとの報を受ける(さいわい一命は取り留める)。
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