許國雄とは? わかりやすく解説

許国雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 01:08 UTC 版)

許 国雄
プロフィール
出生: 1922年10月1日
死去: (2002-05-20) 2002年5月20日(79歳没)
出身地: 台湾高雄
職業: 政治家・教育家・医師
各種表記
繁体字 許國雄
簡体字 許国雄
拼音 Xŭ Guóxióng
和名表記: きょ こくゆう
発音転記: シュー グオション
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許 国雄(きょ こくゆう : 许国雄 Xu Guoxiong 1922年10月1日–2002年5月20日)は台湾中華民国)の政治家で教育家、医学博士[1]、歯学博士。

国民大会代表。東方工商専科学校[注 1]の創設者・学長。元台湾省教育会理事長。中華民国全国教育会監事長。陳水扁政権では僑務委員会顧問を務めた。中国国民党評議委員[注 2]

略歴

  • 1922年 - 日本統治下の台湾高雄に生まれる。
  • 1941年 - 高雄州立高雄中学を卒業し、内地(日本)の九州歯科医学専門学校に入学(現・九州歯科大学)。同校を卒業後、さらに九州高等医学専門学校へ進学(現・久留米大学医学部)。
  • 1945年 - 終戦に伴い台湾へ帰郷。
  • 1947年 - 二・二八事件で父親を国民党軍に虐殺され、自らは九死に一生を得る(3.6)。
  • 1961年 - 蔣経国中国青年反共救国団主任(後の中華民国総統)と談判し、台湾の政治改革を訴える。「共に改革に取り組もう」と蔣に勧められて国民党へ入党。
  • 1963年 - 友人らと育英高級護理助産職業学校[4](育英醫護管理專科學校)を創設。
  • 1966年 - 東方工芸専科学校[7]を創立(後の東方工商専科学校[8])。後に台湾で最初の日本語学科を同校に設置。
  • 1972年 - 台湾省教育会理事長に就任。また、国民大会代表(国会議員)選挙に立候補しトップ当選。日本と中華民国が国交を断交したため、草開省三らの日本人メンバーと教育交流に取り組む。第1回日華教育研究会を台北で開催[注 3]
  • 1996年 - 『台湾と日本交流秘話』を監修発刊(名越二荒之助編集)。
  • 2002年 - 肝不全のため死去[9]

活動

政治改革の推進

許は、2.28事件で市参議員(市会議員)であった父親を国民党軍に殺されたが、その後、蔣経国(後の中華民国総統)と談判し、台湾の「政治改革」を訴えた。蔣から国民党への入党をすすめられ、入党している。

許は、国民党の中から台湾の政治改革を推進し、自称「李登輝派」として活動した[10]。現在[いつ?]日本では、国外に亡命して台湾の改革運動に取り組んだ台湾人にばかりスポットが当てられているが、実際は許のように国民党の中からこれを推進した人も数多く存在した[独自研究?]

台湾関係法成立への貢献

アメリカ合衆国が台湾を軍事的に防衛できる法律「台湾関係法」が米議会で成立するよう努力した[11]

台湾の国民党政権はアメリカ合衆国の共和党政権と強いパイプを持っていたが、民主党との関係は弱かった。許は後者出身のジミー・カーター大統領(当時)と友人であり、就任式にも台湾から唯一、正式に招待された経緯があった。許とカーターは母親同士が産婆仲間として知己であったことから息子二人が友人になったという。許はカーターの実家に宿泊した際、 母親のリリアン・カーターから「台湾関係法」成立について確約を取っている[要説明]

この後、台湾関係法は、在米台湾人団体からの強い働きかけもあり[いつ?]成立した。

日本語教育の推進

台湾の学校における日本語教育を推進した。まず、自らの経営する学校に日本語教育の学科をつくり、 後に国会議員として台湾の多くの学校に日本語学科を設置することを推進した[要説明]

日・華(台)交流

1972年、日本政府と正式な国交を断絶した後、中華民国(台湾)国会で「日華(台)交流」の必要性を訴えて予算を獲得、民間団体同士による日本との教育交流を推進した。日華交流教育会[注 4]は日華断交に危機感を抱いて台湾へ乗り込み教育交流を申し込んでおり、日本側の受け入れ団体となった。

また、許は両国の航空路線の再開維持に努力した。日本アジア航空の台北行き第1便に乗った岸信介灘尾弘吉を空港で最初に出迎え、握手したのは許であった。

特に親しく交流した日本人は、奥野誠亮村尾次郎櫻井勝之進小田村四郎、小堀桂一郎、名越二荒之助、草開省三、倉前盛道、副島博之、高橋史朗勝岡寛次等である。

21世紀に入り日台交流を実践している団体も多いが、戒厳令が敷かれていた当時から交流を続ける団体は少ない。最近の親台湾団体は台湾独立派との関係が深く、「華」の字を中華民国の「華」として使いたがらないが[注 5]、交流歴の長い団体は戒厳令下で「日台」と名乗れなかった故に「日華」という名前を使って粘り強く活動を続けてきた。現・日台交流教育会もその一つである(旧称「日華交流教育会」)。

台湾新幹線への貢献

台湾で高速鉄道が導入される際、ドイツの機関車とフランスの列車を入れることがほぼ決まりかけたが、許は、「機関車も列車も日本の新幹線を導入すべき」との論陣を張った。日本の新幹線のトンネルの岩盤が崩落して列車の天井に落下する事故が起こり、安全性に対する批判が出た際には、「岩盤の崩落はトンネルの問題。新幹線は岩盤が落下しても壊れない丈夫な列車」と、事故を逆手にとって擁護の発言を行った。その後、日本製新幹線は、李登輝総統(当時)もこれを強く推進したため逆転採用となり、台湾高速鉄道が開業した。

1972年に日本の山陽新幹線が開通し[12][13]、大阪–岡山間を走った際[14]には、試乗をおこなっている。

著書等

指導した論文
  • 黃柏峰(huang bo feng)『省電型通訊協定之無線感測器網路研究與雛形系統實現』2004年、論文、 OCLC 1369762823 [台南県永康市]。指導教授:吳賢財、席家年、許國雄。(欧文題名『A New Power Efficient Protocol for Wireless Sensor Networks : It's Prototype System Implementation』)
  • 紀志凱(ji zhi kai)『應用於動脈硬化程度檢測之脈波特徵點定位系統設計』2004年、論文、 OCLC 1369762819 [台南県永康市]。指導教授:吳賢財、許國雄。(欧文題名『Improving the Examination of Arteriosclerotic Degree: A System for Locating Pulse Characteristic Points』)

関連資料

本文の典拠ではないもの。発行年順。

台湾新幹線
  • 館澤 貢次「日本企業連合が逆転勝利 台湾新幹線受注の舞台裏」『月刊times』第25巻第2号、月刊タイムス社、東京、2001年2月、40-42頁、 CRID 1520573330180612224 
  • 「台湾新幹線プロジェクト」『OCAJI』第25巻第7号、海外建設協会、東京、2001年7月、2-17頁、 CRID 1520010378607258368ISSN 0285-2594 
  • 台湾高速鉄道有限公司 (2001-07). “台湾高速鉄道計画概要”. OCAJI (東京: 海外建設協会) 25 (7): 13-16. CRID 1521417755537392512. ISSN 0285-2594. 
  • 池田 耕作「台湾新幹線計画の現状と展望」『OCAJI』第25巻第7号、海外建設協会、東京、2001年7月、10-12頁、 CRID 1522262179866911488ISSN 0285-2594 
  • 片渕 文隆「台湾新幹線C210・C215建設」『OCAJI』第25巻第7号、海外建設協会、東京、2001年7月、2-4頁、 CRID 1522262180710517504ISSN 0285-2594 
  • 五十嵐 孝「台湾新幹線工事の受注と展望 : 台湾新幹線の国際化に参画して」『OCAJI』第25巻第7号、海外建設協会、東京、2001年7月、5-9頁、 CRID 1524232504809912320ISSN 0285-2594 
  • 佐藤 浩二「順調に進む国家的プロジェクト「台湾新幹線」」『世界週報』第82巻第35号、時事通信社、東京、2001年9月18日、14-15頁、 CRID 1520573331234142720ISSN 0911-0003 
  • 「台湾新幹線 日本の七社連合が受注成功 : 画期的な高速鉄道技術の海外進出」『政経往来』第56巻第9号、民評社、東京、2002年10月、28-30頁、 CRID 1520291855863962496 掲載誌別題『The Seikei Orai : The review of business & politics』
  • 安藤「台湾新幹線向け新ATCシステム」『三菱重工技報』2003年、 CRID 1570009751833144576 
  • 台湾新幹線株式会社「台湾高速鉄道プロジェクト/日本連合受注経緯」『貿易保険』第39巻第5号、貿易保険機構、東京、2003年5月、3-9頁、 CRID 1521417755897349632ISSN 0914-3556 
  • 『建設界』第28巻第9号、建設界通信社、東京、2003年9月、72-74頁、 CRID 1520291855504996480 

脚注

注釈

  1. ^ 専科学校は日本の短期大学に相当。
  2. ^ 中国国民党の評議委員職は、かつて宋美齢ら党の重鎮が就任していた。
  3. ^ 以降、現在まで日台交互に会場を替え毎年開かれている。
  4. ^ 2007年時点の会長は小堀桂一郎、事務局長は草開省三。
  5. ^ 台湾正名運動の影響もある。

出典

  1. ^ 許, 国雄 (1961). Studies on the mottled teeth and the fluoridation of the drinking water for the prevention of dental caries in Taiwan (Thesis). 久留米大学. CRID 1920020910021582464. [報告番号不明]。医学博士。
  2. ^ 五郎丸浩(第20次結団式). “育英醫護管理專科學校”. nippon-taiwan.org. 2025年1月18日閲覧。
  3. ^ 北緯22度39分00.3秒 東経120度19分57.5秒 / 北緯22.650083度 東経120.332639度 / 22.650083; 120.332639
  4. ^ 高雄市三民區大昌2路420巷15號[2][3]
  5. ^ 東方工商專科學校”. nippon-taiwan.org. 2025年1月18日閲覧。
  6. ^ 北緯22度52分36.0秒 東経120度13分06.3秒 / 北緯22.876667度 東経120.218417度 / 22.876667; 120.218417
  7. ^ 高雄市湖内區東方路110號[5][6]
  8. ^ Gao xiong xian; 東方工專美工科畢業展籌備會, eds (中国語). 東方工商專校美工科五專部 ... 畢業專刊 (Di 24 jie ed.). 東方工專美工科畢業展籌備會. OCLC 819092148 注記 : 題名『藝設形象東方工商專校美工科五專部 ... 畢業專刊』。
  9. ^ 小堀 桂一郎「日台教育交流の30年 : 最大の功労者許國雄氏の逝去を悼む」『祖国と青年』第287号、日本協議会、東京、2002年8月、42-49頁、 CRID 1522262180846407040ISSN 0387-9437 
  10. ^ 許 1996, 「李登輝総統勝利と日本への期待」国立国会図書館書誌ID: 000000032536-d2842290
  11. ^ 小菅 亥三郎(団長). “ごあいさつ : 海の彼方のニッポンを訪ねて~台湾慰霊訪問の旅を積み重ねて”. nippon-taiwan.org. 2025年1月18日閲覧。
  12. ^ 広島県議会史編さん委員会 編「第10節 山陽新幹線の全線開通」『広島県議会史 続編』 第3巻、広島県議会、1983年3月、450-頁。国立国会図書館書誌ID: 000002729207 
  13. ^ 迫 擴 ほか『目で見る福山・府中の100年』平井隆夫 監修、鄉土出版社、名古屋、1997年。doi:10.11501/12682475NCID BN16137699OCLC 674506540国立国会図書館書誌ID: 000002615347ISBN 9784876700899, 4876700893 
  14. ^ 種村直樹「東京→岡山〈公式試運転試乗記〉」『国鉄線』第27巻3(通号274)、交通協力会、1972年3月、23-25頁、doi:10.11501/2263074NDLJP:2263074国立国会図書館書誌ID: 000000008423-d22630742025年1月18日閲覧 




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