設置とその経緯とは? わかりやすく解説

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設置とその経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 03:09 UTC 版)

悲田処」の記事における「設置とその経緯」の解説

悲田処設置について公的記録は、六国史一つである『続日本後紀天長10年833年5月11日條に、 武藏國言。管内曠遠。行路多難公私行旅。飢病者衆。仍於多磨入間兩郡界置悲田處建屋五宇。介從五位下當宗宿禰家主以下。少目從七位上大丘秋主已上六箇人。各割公廨。以備糊口之資。須附帳出擧。以其息利充用相承受領輪轉不斷。許之。 とあるのがそれである。これによれば武蔵国府が公私問わず旅行者飢えや病に苦しむ者が多いのを見かねて布施屋設置発案多摩郡入間郡の境に建物5棟からなる施設悲田処」を造ったということになる。 運営主体に関しては、運営費について介の当宗家主から少目の大丘秋主(おおおかのあきぬし)まで6人の扶持割いてあて、さらにこれを出挙として貸し付けその利子利用する予定である、と書かれているので、実質的に国府運営であった思われる。 なお、この地域当時武蔵国内で東京湾側、現在の東京23区内を通っている官道東海道直接関係のない地域であるが、この地は宝亀2(771年)に武蔵国東山道から東海道移管されるまで、上野国および下野国から真南武蔵国府へ至る東山道の支道・東山道武蔵路が通っていた場所であった東山道武蔵路東海道移管により官道ではなくなったが、廃道になったわけではなくその後脇街道として一定の交通量があったと見られている。

※この「設置とその経緯」の解説は、「悲田処」の解説の一部です。
「設置とその経緯」を含む「悲田処」の記事については、「悲田処」の概要を参照ください。

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