討伐開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:08 UTC 版)
兵力が4000名に達したので、王式は各方面から賊を討伐させることにした。宣歙の将白琮と浙西の将凌茂貞には各自の部隊を率いさせ、北方から派遣されてきた韓宗政らの将帥には1000名を統率させ、石宗本は騎兵を率いて先頭部隊をつとめ、上虞県から奉化県へおもむいて象山の囲みを解かせた。これら軍勢を東路軍と名づけた。 一方、義成の将白宗建・忠武の将游君楚・淮南の将万璘に各自の部隊を統率させ、台州唐興県の部隊と合流させたものを南路軍と名づけた。 王式はこれら討伐軍に「道のよしあしを争いあうな。民家を焼き払うな。一般人民を殺して取った首の数を増やしたりするな。一般人民が強制されて賊に従っている者は、降伏するよう呼びかけよ。賊の財産を分捕るのは咎めない。捕虜にしたものが浙東人なら、すべてこれを釈放せよ」と命じた。 癸卯、南路軍は賊の沃州寨を抜いた。甲辰、新昌寨を抜き、賊将毛応天を破り、さらに唐興県にまで進撃した。 5月辛亥、浙東の東路軍は賊将孫馬騎を寧海県で破った。戊午、南路軍は賊将の劉暀と毛応天を唐興県の南谷で大いに破り、毛応天を斬った。これよりさき、王式は兵力が少ないので、忠武・義成両軍からさらに増兵されたいと上奏し、また昭義軍からの出兵も要請した。それらはいずれも認められ、三道の兵が越州に到着した。王式は忠武の将張茵に兵300名を率いさせ、唐興県に陣取って賊の南出を妨害させた。義成の将高羅鋭には兵300名と台州の現地軍を加えた部隊を与えて寧海県へと急行させ、賊の根拠地を攻めさせた。昭義の将𨁂跌戣は兵400名を率いて東路軍に合流し、賊の明州への道を断った。
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