西行の庵の山の五百椿
作 者 |
|
季 語 |
|
季 節 |
春 |
出 典 |
|
前 書 |
|
評 言 |
五百(いほ)椿とは昭和51年に森澄雄が讃岐・善通寺の西行庵の周辺を吟行中に近くの山で八重咲きの椿を見つけて名付けたものである。このとき澄雄は香川県の「杉の会」の連衆とともに讃岐路をめぐっており筆者は、当時一行に加わった松岡道代さんに後になってからだが現地で五百椿の花を見せてもらったものである。ピンク系の花弁は多過ぎず少な過ぎず、乱れず整い過ぎずで、普通には八重椿とか玉椿と呼んでしまいそうなところ、さすが当時57歳の森澄雄がもっとも活躍していた頃の感性をもって付けたネーミングだったと確信するほど見事な椿であった。掲句は澄雄により「四国四句」と前書きを付けて以下の三句とともに句集・鯉素にとり上げられている。〈巌つ瀬の水の白珠山ざくら〉〈似非(えせ)遍路にも接待の草の餅〉〈青饅やこの世を遍路通りゐる〉。 ちなみに讃岐は空海の誕生地であり崇徳院が保元の乱に敗れて流され崩御した土地でもある。西行法師は崇徳院の歌の師匠だったので、院の死後仁安2年(1167)のころ弟子・西住と一緒に弔いのため讃岐に渡り、かねて敬慕していた空海の郷・善通寺にも参詣、修行のため五岳山の中腹に庵を結んでしばらく滞在したのである。「西行」の著者・安田章生氏によれば安芸の厳島参詣のときの歌は2首しか残っていないのに、讃岐で詠んだ和歌は40首以上数えることが出来るという。森澄雄はこれらのことも承知していたので、偶々この山で見かけた椿の花に床しくも「五百椿」と名付けたのであろう。 |
評 者 |
|
備 考 |
- 西行の庵の山の五百椿のページへのリンク