西洋医学における終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:23 UTC 版)
体液病理説・四体液説に基づくギリシャ・アラビア医学は、ヨーロッパでは15-16世紀まで、ペルシアなどでは19世紀末まで主要な医学であった。16世紀の解剖医アンドレアス・ヴェサリウスが、ガレノス解剖学の誤りを証明し(古代ローマでは人体解剖は行われず、ガレノスは動物解剖の知見をベースに理論を組み立てていた)、徐々にガレノス医学の誤りが明らかになっていった。モルガーニは『病気の座と原因について』(1761年)で、病気の座として臓器を考え、ビシャは『一般解剖学』(1801年)で、組織を病気の座とした。とはいっても、1858年のウィルヒョー(ウィルヒョウ、フィルヒョウ)の革命まで、体液病理説はほとんど議論の余地なく受け継がれていた。 病理解剖学研究の泰斗ウィルヒョーは、『細胞病理学』で体液病理説を否定し、細胞病理説を主張した。「すべての細胞は細胞から」という有名な公理を生み出し、器質的疾患は、過剰な刺激や炎症が原因で生じた細胞の変形に基づく病変に必ず結びつくことを明らかにした。こうした概念は、当時の医学思想を一変させ、体液病理説は医学の主流から姿を消した。
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