衰えと成勝寺の末寺化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 00:02 UTC 版)
国分寺と国分尼寺は、9世紀以降衰退していった。例として、国分寺や国分尼寺で用いられた瓦が9世紀代に近隣の竪穴住居跡で転用されているのが確認されており、国分尼寺では878年の大地震後に再建されたとみられる茅葺の掘立柱の建物も、やがて再び焼失したことが明らかになっている。出土した土器などから、国分尼寺は10世紀末頃まではその機能を維持していたものと考えられている。 1008年に相模守の任期を終えた平孝義は前任者が残した相模国の雑官物実録帳(公的な財産目録)との照合し、相模国分寺の資材に欠失が生じていることから私財で弁償することを申し出たと見え、11世紀初めにはまだ相模国分寺の機能が維持されていたことがわかる。 その後、荘園制の浸透とともに国分寺の経営基盤が弱まり、元来官営の寺院であったため寺院経営が困難になっていった。そのような中、相模国分寺は崇徳天皇の御願寺として1139年に建立された成勝寺の末寺となったと見られている。成勝寺はいわゆる六勝寺のひとつとして院政期に建立された寺院であり、強い権威をバックに多くの末寺・荘園を所有した。相模国分寺も生き残りのために成勝寺の傘下に入ったものと推測される。
※この「衰えと成勝寺の末寺化」の解説は、「相模国分寺」の解説の一部です。
「衰えと成勝寺の末寺化」を含む「相模国分寺」の記事については、「相模国分寺」の概要を参照ください。
- 衰えと成勝寺の末寺化のページへのリンク