薬園台
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
現薬円台では、享保の改革に伴い、成田街道沿い牧の江戸側、船橋市郷土資料館西に丹羽正伯と薬種商桐山太右衛門がそれぞれ土地を得て薬草園を設けた。薬園台参照。薬草園は幕府直営との説もあるが、長崎大学薬学部に、薬園は幕府の許可を得た私製のもの、『千葉郡誌』『地方資料小鑑』にも、幕府から15万坪の土地の払下げを受けて設けたとある。「御薬園」と呼ばず、正伯自身も含め、薬園の奉行等の職制、正伯の死後の幕府への返還、次の管理者の赴任の記録がなく、直轄ではない事と一致する。薬草園は太右衛門の死去もあり、後に廃止、ほぼ全域が正伯新田となった。1919(大正8)年、東京女子高等師範学校附属高等女学校『遠足の栞』に薬草が栽培され、採取もしやすい旨記述がある。『旧事考』付図には成田街道北側の西に薬園台、東に正伯、明治期の地形図では薬園台旧称正伯の表記がある。太右衛門も15万坪の薬園を開設、明治期の地形図で習志野の演習地西隣、成田街道の南北に、ほぼ15万坪ずつの農耕地がある事、各地図で街道の北に「正伯」とある事から、北が正伯、南が太右衛門の薬草園、また、薬草園の西が初期の下野牧西縁と推定される。旧馬加村の幕張駅近くに青木昆陽がサツマイモを栽培した地があり、薬園とともに享保期における牧の南西部の開発を示す。薬園台より西の船橋市立二宮小学校によれば、かつては同校の南に野馬堀があり、初期の牧は、西にも広がっていた事を示す。
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