葉の裏のみがきにしんに変(な)る人よ
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出 典 |
阿父学 |
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評 言 |
「ひとは何故死ぬのか」と言う問いに、「それは死にたいからだ」と答えた人がいた。「ひと」に限らず、生き物は死ぬ。単細胞の生き物も鶴亀も死ぬ。この「死にたい」は意識の届かぬところ、識の届かぬところ、無意識などという万能の言葉では表せない深淵における欲動、フロイトの言うタナトスに近いのかもしれない。「死にたい」を平して言うと「死に向かっている」であるが、これを木村敏は原時間と言う。 「葉の裏」と言い、「みがきにしん」と言い、私は掲句にこの「原時間」を感じてしまうのだ。安井には「みがきにしん」の他に「スルメ」の句もあって、師の永田耕衣は安井の句の真骨頂を「干物」と喝破していたことを思い出した。耕衣もまた茄子が乾涸らびていくのを愛でたではないか。二人して「原時間」に吸い込まれていったのであろう。 ここで、「干物」云々のことはおいておくとして、私は安井の言葉が予想外のつながり方をしていくことに驚く。日常の言葉のながれを裏切るように句は展開していくのだ。とはいえ、難解とも言い難く、どこかから「なつかしさ」が漂ってくる。このなつかしさは生活感情に由来するものではなくて、どうやら日本語の本質に触れるようなもの、たとえば修辞法などにより埋もれてしまっていた表現が作者によってよみがえった、などと思うのは私の妄想なのだろうか? (写真:荒川健次) |
評 者 |
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備 考 |
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