菊地涼子とは? わかりやすく解説

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菊地涼子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/09 16:18 UTC 版)

菊地涼子
宇宙飛行士
国籍 日本
生誕 1964年9月(60歳)[1]
日本神奈川県座間市[1]
ミッション ソユーズTM-11, ソユーズTM-10(サブクルー)[2]
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菊地 涼子(きくち りょうこ[1]1964年昭和39年〉9月 - )は、日本宇宙飛行士、元TBS(東京放送)社員[1][注 1]神奈川県座間市生まれ。

人物・来歴

女子学院中学校・高等学校を経て[3]、1987年3月に東京外国語大学外国語学部中国語学科を卒業[1]。同年4月、TBSに入社[1][注 1]。本人の希望により、当時TBS唯一の女性カメラマンとして報道局報道センターに配属された[1]

1989年に、TBSの「宇宙特派員計画」に応募。150人以上の候補者から選抜され[1]、1989年10月には秋山豊寛とともに宇宙飛行士としての訓練のためソ連の星の街に派遣された[4]

星の街で約1年間、宇宙飛行士としての訓練や医学チェックを受ける。1990年9月からはアナトリー・アルツェバルスキーセルゲイ・クリカレフとクルーを組んでの訓練を受け[5]、1990年11月にソユーズTM-11ミッションにおいて、秋山、ムサ・マナロフヴィクトル・アファナシェフのメインクルーに対してのサブクルーに任命された[2][注 2]

最終医学チェックにもパスし、秋山に問題が起きた場合には代わりに宇宙に向かう可能性もあったが、同年11月24日にカタル性虫垂炎に罹患して緊急手術を受けることとなり、サブとしての役割を果たせなかった[6]。このことにより、バックアップ要員のいなくなった秋山がかなりのストレスを溜めてしまった、というエピソードがある。幸い手術が成功し、術後の経過も良好だったことから、『日本人初!宇宙へ』において、地上でソユーズミールに関するコメンテーターの役割を担った。

菊地自身は、その後も宇宙に行く機会に恵まれなかった。

2000年にTBSを退社してから[注 1]、NPO法人KU-MA理事、青山学院大学外部招聘講師を務めた[7]

著書

脚注

注釈

  1. ^ a b c なお、菊地の退社後にTBSは分社化しており、会社法人としては後の東京放送ホールディングス(2020年10月にTBSホールディングスに改称)。放送局としては、後のTBSテレビ(2009年4月以降)・TBSラジオ(2001年10月以降)。TBSの通称は、2009年3月まで東京放送のものだったが、同年4月の社名変更に伴い、TBSテレビへ引き継がれた。
  2. ^ 菊地を除く2名は後にイギリスヘレン・シャーマンとともにソユーズTM-12ミッションのメインクルーを務めた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 菊地涼子『星の街から - 誰でもなれる宇宙飛行士訓練日記』小学館、1991年4月10日、253頁。 ISBN 978-4093870627 
  2. ^ a b 菊地涼子 1991, p. 227.
  3. ^ 女子学院”. 2023年3月24日閲覧。
  4. ^ 菊地涼子 1991, p. 36.
  5. ^ 菊地涼子 1991, p. 189.
  6. ^ 菊地涼子 1991, pp. 235–240.
  7. ^ 本人のツイッター プロフィールより 2019年11月24日閲覧[信頼性要検証]

関連項目

外部リンク




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