船籍・航路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 08:42 UTC 版)
船籍についての証拠として、港の名前を記した船具も引き揚げられた。青銅の沈鍾に「慶元路(中国語版)」という銘があったため、この船が慶元(寧波)の中国船であると判明した。寧波は唐の時代から貿易港として栄え、宋代には明州や慶元府(中国語版)と呼ばれ、元代には慶元路と呼ばれていた。木簡には「至治三年六月三日」(1323年)という元の暦が書かれたものや、日本の東福寺の権利物を示したものもあった。当時の日本は博多で中国と貿易を行っていた点から、元の時代に慶元から博多へ向かった船であることが判明した。 元代の東アジア航海ルートには、(1) 首都の大都に近い山東半島と高麗の開京を結ぶルートと、(2) 東シナ海から朝鮮半島の南を通って博多に行くルートの2つがあり、新安沈船は(2)のルートを通った。当時は慶元から高麗の間は3日から5日、慶元から日本の間は約10日かかった。新安沈船は慶元(寧波)で陶磁器をはじめ大量の貿易品を積み、博多を目指して出港した。杭州湾を出たあとで舟山列島から北東へ向かい、朝鮮半島南端に達した。積荷が満載だったことから、出港後にどこにも寄港せずに沈没したことが分かる。ただし、積荷の種類は日本で人気のある陶磁器や宋銭の他に、高麗で人気のある紫檀・胡椒・肉桂などもあり、複数の寄港を予定していたという説もある。
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