自由の身へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 02:41 UTC 版)
1990年代、世界各国で人権団体が運動している中、パキスタンでは債務労働解放戦線(英語版)(Bonded Labour Liberation Front。以下、BLLFと略)という民間組織が児童労働防止のために活発に活動しており、一定の評価を得ていた。BLLFの活躍により、パキスタンの最高裁判所では債務労働制度の廃止が宣言され、1992年には債務労働廃止法案がパキスタンの議会を通過した。これは、債務労働者の家の負った借金が帳消しになることを意味していた。 イクバルの雇い主はBLLFを危険視し、労働者である子供たちにBLLFに接触しないよう忠告していたが、イクバルは1992年2月、工場を脱走してBLLFの集会に参加した。脱走防止のために鎖で繋がれていたにもかかわらず、過酷な労働で腕が痩せ細っていたため、腕を縛る手錠から腕が抜け、皮肉にも脱走の成功に繋がった。この集会で初めてイクバルは、すでに法律上で債務労働制度が禁止され、自分の家の背負った借金が帳消しになっていたにもかかわらず、自分が工場で労働を強いられていたことを知った。 会場のかたすみにちぢこまっていた彼は、年寄りのようにやせ細り、ぜいぜい苦しげな息をしていた。まるで自分の姿をかくし、消えてしまおうと努めているかのようだった。それほどおびえていたのだ。しかし、わたしはこの少年が特別なものを持っているのを感じた。強い意志を持っていることを。 — イーシャーン・ウラー・カーン(BLLF代表)、クークリン 2012, p. 109より引用。 これが契機となり、イクバルはBLLFの弁護士を通じ、自分の身が自由であることを明かす証明書を入手。絨毯工場で働いていた多くの同胞の子供たちと共に、工場を去った。こうしてイクバルは6年間の債務労働から解放され、10歳にして自由の身となった。
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