腰越村成立後から消滅までとは? わかりやすく解説

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腰越村成立後から消滅まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 09:59 UTC 版)

腰越」の記事における「腰越村成立後から消滅まで」の解説

明和3年1766年11月18日 - 腰越村と、西側接している片瀬村村役人が、鉄砲場建設反対する訴状提出従来柳島現在の茅ヶ崎市柳島付近か)から片瀬村にかけてあった相州炮術調練場幕府役人用の射撃訓練場)を、腰越村延長する計画起こった鉄砲場が既にある地域では、騒音が来なくなってしまい漁獲高減ったり、防砂林伐採され田畑が砂を被ったりしていたため、このような被害腰越村にも及ばぬよう訴えたのである鉄砲場管理する役人との討議結果鉄砲場延長するが、当面訓練行わないことで合意至った明和5年1768年5月 - 腰越村片瀬村との間で境界紛争が起こる。同年3月10日に、難破船船板長さ5間、幅3尺)が1枚腰越村流れ着いたが、これを片瀬村の者が引き揚げたことが発端となった腰越村側の主張は、「享保12年1727年)に腰越村龍口寺との間であった争いの際に、片瀬村との境界確定しており、立てられていたが、片瀬村側がこれを抜き取り位置よりも2町腰越村寄り境界としようとしている。」とするものであった。 これに対し片瀬村は「船板流れ着いた場所は、従来から片瀬村の者が地引網漁を営んできていた土地であり、享保12年1727年)の判決従ったとしても、問題の場所は片瀬村土地であり、腰越村片瀬村土地不当に奪おうとしているものである。」と主張した。 この紛争安永5年1776年)に決着した判決では、双方言い分とも採用されず、享保12年1727年)の判決以前には竜口寺が「片瀬竜口寺」と呼び習わされていたことから、竜口寺片瀬村側とするような境界新たに定められた。また、腰越村沖合い漁を、片瀬村地引き網漁を、互いに入会いりあい)として行ってきていたことを認定し今後もこの慣例どおりとすることと言い渡された。 「漁業権#漁業法制の歴史」も参照

※この「腰越村成立後から消滅まで」の解説は、「腰越」の解説の一部です。
「腰越村成立後から消滅まで」を含む「腰越」の記事については、「腰越」の概要を参照ください。

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