能登守護・畠山家の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/20 06:42 UTC 版)
「七尾城の戦い」の記事における「能登守護・畠山家の内紛」の解説
天正4年(1576年)9月、謙信は2万と号する大軍を率いてまず越中に侵攻する。越中は、もともと河内能登畠山家が守護であったが、戦国時代に入ると守護代の神保氏、椎名氏らが力をつけて互いに覇権を争っていた。能登畠山家では畠山義綱が永禄9年(1566年)に家臣団によって追放され、その後釜として擁立された畠山義慶も天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げた。これは一説に家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも言われている。そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も天正4年(1576年)に死去し、遂にはその義隆の子でまだ幼児の畠山春王丸が擁立されるなど著しく不安定であった。大義名分は、かつて畠山氏から人質として差し出されていた上条政繁を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するというものであった。
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