職人町から中心繁華街へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 18:57 UTC 版)
「新鍛冶町 (弘前市)」の記事における「職人町から中心繁華街へ」の解説
寛文13年 - 弘前中惣古街絵図には、不完全ながら屋敷割りがある。 延宝6年 - 弘前町方屋敷割りでは、町割りがされているが、町名は大工町とあり、当時の記録では大工20、碇屋2、鍛冶屋1、桶屋2、佐官1であった。また、延宝2年6月の条によれば、この時に新鍛冶町になったと思われる。 1899年(明治22年) - 弘前市に所属とともに以後、職人・商店街に発展。 1953年(昭和27年) - 弘前電気鉄道が開通し、吉野町に中央弘前駅が設置され、近接する鍛冶町・桶屋町とともに東北地方有数の中心繁華街に発展。 新鍛冶町(鍛冶町地区)は中心繁華街における文化・交流の面的空間の再生に向けて、弘前れんが倉庫美術館(吉野町地区)と共に、弘前市の中心市街地活性化ビジョンで「文化交流エリア」にゾーニング。現在では、官民連携によるエリア一体で行う各ハード整備事業やソフト事業の実践による活性化が進められている。
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職人町から中心繁華街へ
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「鍛冶町 (弘前市)」の記事における「職人町から中心繁華街へ」の解説
1952年(昭和27年) - 弘南鉄道大鰐線中央弘前駅の位置する吉野町が近く、中央弘前が開業すると、それまで鍛冶職人が多くいた職人町から、近隣の新鍛冶町・桶屋町とともに東北地方有数の中心繁華街に発展。 鍛冶町地区は中心繁華街における文化・交流の面的空間の再生に向けて、弘前れんが倉庫美術館(吉野町地区)と共に、弘前市の中心市街地活性化ビジョンで「文化交流エリア」にゾーニング。現在では、官民連携によるエリア一体で行う各ハード整備事業やソフト事業の実践による活性化が進められている。
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