美しきテバ女伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:00 UTC 版)
「ウジェニー・ド・モンティジョ」の記事における「美しきテバ女伯」の解説
エウヘニアは21歳の時に亡き父の持っていた多数の称号を受け継いだ。1853年に結婚するまでは「テバ女伯」あるいは「モンティホ女伯」などの称号を色々使用していた。しかし、家族の称号の中には法的に姉が相続し、アルバ家に渡ったものもある。父の死後、エウヘニアは第9代テバ女伯になり、『ゴータ年鑑(英語版)』にその名が載った。ウジェニーの死後、モンティホ家の称号の全てが、フィツ=ハメス・ストゥアルト家(アルバ公およびベルウィック公)の下に渡った。 この頃、エウヘニアはフランスの社会主義理論家のシャルル・フーリエが提唱する独自の社会主義思想に傾倒してゆく。元々フランスで学んでいた頃から社会主義思想に興味を持っていたエウヘニアだが、25歳になる頃にはこの考えにはついて行けなくなっていた。 父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて「鉄の処女」と言われるようになる。 1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルトが第二共和政の大統領になると、エウヘニアは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Président)主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。 1853年1月30日、エウヘニアは前年にフランス皇帝ナポレオン3世に即位していたルイ=ナポレオンと、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。それまでの短い間に、ナポレオン3世はカロラ・フォン・ヴァーサ(スウェーデンの廃王グスタフ4世アドルフの元王太子ヴァーサ公の娘、後にザクセン王アルベルトの妃となる)、さらにヴィクトリア女王の異父姉フェオドラの10代の娘アーデルハイトとの縁談を断わっていた。
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