紳助・竜介時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:16 UTC 版)
1977年、松本竜介の名前で島田紳助と共に漫才コンビ「紳助・竜介」を結成。紳助が明石家さんまと組もうとして断られ紹介されたのが竜介である(ただし、紳助著『自己プロデュース力』にはさんまに断られたという記述はない。しかし、紳助はバラエティ番組笑いの教科書ではさんまに断られたエピソードを語っている)。「松本竜介」は西川のりおが命名した芸名である。結成当初、紳助を「この男なら漫才をやりたい。どこまでそう思えるか。それが大事や。」と語っている。 漫才ブームの波に乗り、吉本興業の看板芸人の一員として一世を風靡する。駆け出しの頃から女遊びが激しく、当時関係を持った女性は300人を軽く超えるといわれた。1980年に結婚を発表している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1983年には[要出典]芸名を松本竜助へ改名。しかし、人気絶頂期の1985年に紳助の意向でコンビを解散。解散後の1987年には、青芝金太・紋太で活躍していた青芝紋太と共に「竜助・モンタ」を結成するも1年程で解散、同時期に吉本興業を退所する。
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