篠山藩出仕
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嘉永2年(1849年)11月藩主青山忠良に従い帰郷し、嘉永3年(1850年)学士添役となり、一日置きに藩校で経史を講義した。嘉永6年(1853年)6月世継ぎ青山忠敏の侍読を兼ねた。安政2年(1855年)3月15日給人に取り立てられて士分に列し、10人扶持を宛行われ、御儒者となった。安政3年(1856年)3月20日江戸在勤中、篠山の自宅が類焼した。安政5年(1858年)9月殿中月次講釈を命じられた。11月には江戸上屋敷で火災に遭遇した。 文久2年(1862年)忠敏の藩主就任以降、参勤交代の際には必ず従った。元治元年(1864年)5月15日新知高50石3人扶持。慶応2年(1866年)6月13日長州征伐従軍のため大坂に出て、取次兼使役を務めた。9月19日郡奉行・道奉行となり、御儒者を兼任した。慶応3年(1867年)忠敏が書物刊行を企画したため、塩谷宕陰に相談したところ、『女訓』か『古今文致』を勧められ、『刪訂古今文致』を刊行した。 明治3年(1870年)1月督学となったが、明治4年(1871年)廃藩置県により辞職した。
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