箕作男爵家
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阮甫は妻・といとの間に4女をもうけたものの、男子が無かった。 長女・せきは弟子の山田黄石に嫁がせ、黄石は後に呉と改姓、呉家の祖となった。 三女・つねと四女・しん(ちま)には弟子を婿養子として迎えた(次女は夭折)。 2人の婿養子のうち、しんの夫・箕作省吾が夭折したので省吾の長男・箕作麟祥が秋坪とともに嗣子となった。1854年(安政元年)に阮甫は秋坪に家督を譲って隠居し、麟祥を連れて分家した。これが箕作男爵家の始まりである(当時は華族制度もなく、「男爵」ではない)。 阮甫の死後・麟祥が箕作男爵家の当主となった。麟祥は死に際して男爵を贈られたため以降は箕作男爵家が箕作一族の本家となった。麟祥の長男・泰一と次男・正次郎はともに夭折したため麟祥の死後三男・祥三が家督と爵位を継いだ。だが祥三も夭折したため異母弟の俊夫(麟祥の四男)が男爵箕作家の3代目(阮甫から数え4代目)当主となった。 なお麟祥の長女・貞子は石川千代松に、三女・操子は長岡半太郎に嫁いだ。 俊夫の死後家督と爵位は、長男・祥一が継ぎ敗戦に至った。祥一(元日本大学農獣医学部教授)の死後は、その弟・俊次(俊夫の次男)が箕作本家の当主となり、2011年現在の当主は俊次の長男・有俊である。なお、俊次・有俊の親子は共に学問以外の道を歩んだため、ここに至って箕作家の学者家系としての伝統は絶たれたといえる。ただ祥一の娘で近江家に嫁いだ禎子が医学の道に進み、東京慈恵会医科大学麻酔科教授になっている。祥一の妻すなわち禎子の母は養命酒製造の第4代及び第6代社長を務めた塩澤友茂の次女。
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